宣教50周年という記念すべき時期に、私たちの両親を顕彰して下さってありがとうございます。彼らもきっとよろこんでいるでしょう。
「ノート先生」は83歳で、母も94歳で既に亡くなりましたが、その子供として私たちは、彼らは二人とも「神の前に富んでいた」ということが言えると思います。私はいま読んだイエス様の言葉を思い描きます。 −− 33節と34節を読んでみましょう −−
『持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです』
私の両親は、ここ日本だけでなく、ドイツやアメリカにいたときでも、このみ言葉に留まり続けたと言えます。
主は私に、この特別な機会に皆様と何を分かち合うように命ぜられているのでしょうか?知恵と方向性とを求めて祈っていると、ルカ12章32節にある御約束を強調すべきことがはっきりとしてきました。
『小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。』
そしてもし私の父がここにいるならば、彼の日本での個人的経験から、次のみ言葉を付け加えるでしょう。(Tヨハネ4:18)
『愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。』
ご存知の通り、日本人だろうがアメリカ人だろうがドイツ人だろうが、人間は困難に直面したときに、恐れたり、ためらったり、決断がつかなかったりする傾向があります。この2005年に日本にクリスチャンとして生きているあなたがたにとって、勇気ある人間になるということはどのような意味があるのでしょう?希望と確信を持って神の示される未来へ進むのにはどのような意味があるのでしょう?今から10年後、25年後、50年後の日本の国と日本のクリスチャン社会に対して、私たちの主が抱かれている夢を待ち望むことに、どのような意味があるのでしょう?
これが、今お読みした聖句から新鮮な目をもって、私が読んでみたいところです。
あるカウンセラーの話をさせて下さい。彼は高校の生徒から、決断の下し方についてアドバイスを求められました。すると彼は言いました。
―― 若者は、親の代わりに自分自身でより多くの決断を下したがるものである。彼らは自分を自分でコントロールしたい!と思っている。
しかし彼らは、すぐに決断を下すというのが楽ではないことが分かる。下さなければならない決断が毎日、毎週のようにある。大きい決断や小さい決断もあれば、中くらいの大きさのものもある。何をすべきか決断するのは精神的にくたびれるものである。それで決断を下すのが怖くなるのだ!
このプレッシャーが増していけば、また前のように、他の誰かが決断を下してくれるのを願うようになるのだ。――
続けて、そのカウンセラーは生徒たちにこう言いました。
「これが私の一番のアドバイスです。“大きな決断を最初にせよ、そうすれば他の小さな決断が、精神的にまいる前に自然とはっきりしてくる”
例えば、もし高校生のあなたが医者になりたいと決断したら、いい成績を出して大学の試験に合格しなければならないことが分かるでしょう。だから、大きな決断を下しておけば、もし友達が勉強の代わりにスポーツをしたり町で楽しんだりしようとさそっても、イエスかノーか言うことが簡単になるでしょう。」
私は、イエス様が同じことを言おうとしていると信じます。
“大きな決断を最初にせよ、そうすれば、クリスチャンとして生きるための他の決断が、自然とはっきりしてくる”
イエス様が語られた、富めるが愚かな農夫の話を思い出しましょう。イエス様が20〜21節で強調されていることに注意しましょう。
最初の大きな決断は、主のご計画の一部である遠い将来に自分の身を委ねることです。これがイエス様が31節で「神の前に富んでいる」と言われるところです。マタイの福音書6章のより馴染み深い言葉で言えば、『神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます』。
これがどのようにして叶えられるかご存じですか?大きな決断を最初にすれば、他の決断は、何をすべきか内面で悩むことが全く無しに落ち着くのです。
神とそのみ国を第一とするという大きな決断を一旦してしまい、神が人の基本的欲求を満たすという約束を守られると信じるならば、私たちは毎日の食事や、家が十分に快適かとか、車が十分新しいかとか、その他諸々の欲求不満から来る恐れに没頭することから自由になります。
イエス様がこの部分から強欲について語られていることにお気づきでしょうか?――強欲に気をつけよ!ということです。
日本人は強欲と戦っているとお考えでしょうか。そもそも強欲とは何でしょうか。それは、今持っているもので満たされることが全くない、ということではないでしょうか。それは、ほとんど気が狂わんばかりに何かをつかみ、手の届くところに留めておくことなのです。
かつて、私たちの仲間の宣教師がネパールにいました。彼女は、捕まえやすいある種の猿についてこんな話をしてくれました。まず、猿がなんとか手を入れられるような穴の開いた箱を用意し、その中にバナナかリンゴを入れます。その猿が手を入れて果物を捕まえると、(果物を持ったままで手が抜けられないので)猿はそのまま動きません。彼らはあまりに強欲なのです。彼らは捕まえられて動物園に送られてしまいます。
あなたも私も罠にかかるのです!手を固く握り締めて行きていきましょう!
ピリピ4:12〜13にある、パウロの証しと比較してみましょう。ご覧の通り、パウロは大きな決断を最初にした人物で、そのことが彼の毎日の生活に対する見通しを特異なものにしたのです。このような生き方はアメリカや日本の主流に逆らう動きなのです。そしてこれは、私の父と母が決めた大きな決断の一つなのです。――『神とそのみ国を第一とせよ』!
私が申し上げたい第二の大きな決断とは、イエス様が“小さな群れ”と呼ばれた(ルカ12章32節)教会に身を委ねよ、ということです。
これは、各々のクリスチャンにとってもう一つの大きな決断です。これは、彼ら(クリスチャン)の集団のことに気を払い守ることを意味します。あなた方には当てはまるでしょうか?
またこれは、この場所に毎週、毎月、毎年来て、神の愛が地域の他の人々に伝わる集団の一員となることを意味します。
ある家庭医が9歳の女の子に、“家”が彼女にはどんな意味があるのか聞いていました。彼女の答えはこうでした。「お家は、外が暗くなったら帰るところなの」夜の闇が落ちるころ、家路に就く子供は木々の間に隠れている幽霊を思い浮かべます。子供にとって、台所の窓から見える明かりがどんなにすばらしいことでしょう。家は外が暗くなったら帰るところであり、愛が住まうところなのです。これがあなたがたの教会、第二の家なのです!私たちの天の家から離れた家なのです!
イエス様は32節で、教会のことを“小さな群れ”と呼びました。あなたがたが“小さな群れ”という言葉を聞いてどのようなイメージを浮かべるのか、私には分かりません。私の場合は、めんどりと小さなひよこを考えます。
私たちの家族は戦時中に軽井沢に疎開していた時に、ニワトリを飼っていました。私は、めんどりがひよこの群れをかえしていた時に起こることにいつも魅了されていました。めんどりはクックッという鳴き声を立てます。ひよこはそれに聞き慣れてる内に、母親がどこにいるのかその鳴き声で分かるようになります。
そして、めんどりが危険を感じると、いつもと異なる速さで鳴き声を立てます。そうすると、ひよこはできるだけ速く走っていって、めんどりの翼の下に隠れるのです。
イエス様が次の章で、目に涙を浮かべて何と言われたか、お読みしましょう。
『……わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たびあつめようとしたことか。……』(ルカ13:34)
私は、イエス様の力強い翼の下に安心できる場所をみつける、というこのイメージが大好きです。「小さな群れよ、恐れるな」――イエス様はここにおられます!私たちは彼の小さな群れなのです!
私はルカ12:32を、中国の地下教会に特別に与えられた箇所だ、と理解しています。“家の教会”運動(中国の非公認教会のこと)というのは、“小さな群れ”や“からし種”と同じように愛らしい呼び名だと言えます。
ご覧の通り、イエス様ご自身が地における彼のみ国の見える一部分として建てられたクリスチャンの共同体に、自分たちの身を委ねる、という大きな決断をあなたと私が下すならば、他の全ての実際的な、毎日の決断は自然と決まっていって、よりストレスを起こりにくくします。
使徒の働きで述べられているように、初代教会では自発的で惜しみない親切が引き起こされて、他の異教徒をして「見よ、何とクリスチャンはお互いを愛し合っているのか」と言わせました。
何が起ころうともキリストの“小さな群れ”に真に身を委ねること、この会衆の中で創造的な問題解決者となること、そしてクリスチャンの存在によって祝福されるこの地域の中でもそうなること、このことを恐れる必要はもう無いのです。
この大きな決断が、1929年に私の父が来日するときに喜んで下したものであり、私の母が結婚のため1933年に来日したときに下したものなのです。
イエスが弟子にしてもらいたかった第三の大きな決断があります。彼はそれをルカ12:35〜40で述べています。つまり、自らの死の日までクリスチャン、すなわち心から奉仕する者であり、今後も常にそうである人々、であり続けることです。
私の父と母は、私たち子供にとってこのことの良い例であり、日本でもどこででもこのことを覚え続けていたのです。
もし、あなたと私が自分自身を奉仕者の立場から見るという大きな決断を下したならば、――それは、家庭でも教会でも、私たちの主の合図にいつでも従えるようにすることです――単調な仕事をすることや、救いの手を差し伸べることや、大きな必要を覚えている人の世話をするといった、全ての実際的な決断はだいぶ楽になり、自然と実行できるようになるのです。
1974年に私は、かつて1960年代にカリフォルニア大学で過激派の学生運動のリーダーだった人の証しを聞きました。彼は政府転覆を主張していました。そしてヨーロッパに逃れ、国々をヒッチハイクしながら追及を逃れていました。
彼は、イタリアの道端でアメリカ人のビジネスマンが拾ってくれた時のことを話してくれました。その人は彼の手荷物を全て手にとって、トランクに入れてくれました。ローマへのドライブの途中、この過激派学生はずっと米国政府への恨み辛みを吐き続けました。ビジネスマンは彼の話をただ静かに聞き続けていました。
ローマに着くと、その人は学生をいいホテルへと連れて行って、1週間分の宿泊費を払ってくれました。彼はまったく苛立って、ついにこう尋ねました。「何でまた、あんたはこんなことをしてくれるんだい?」
そのビジネスマンが言ったのはただ一言、「イエス様が、お互いの足を洗うように言われたからです」。
皆さん、一生涯の奉仕へという大きな献身は、この混乱し貧窮した世界に関わり過ぎることへの躊躇を取り除いてくれるのです。
その代わりに、私たちは私の両親の例――「もちろん、あなたのご期待にお答えします!はい、私たちは喜んで仕えます!」と即座に言った人たちの例――に従うことを選ぶのです。
最後にもう一度、イエス様のみ言葉を述べて、終わりにいたします。『小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです』。
これが偉大な約束です!
(終)
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